ジュニアユースの最近のブログ記事

「子どものからだと心白書2016」では、子どもの運動能力の向上について、中学生年代では明らかな向上がここ数年続いているとされています。


果たして、本当?って感じてしまいました。


私は、ことサッカーに関してはそう感じていません。

少なくとも、私が関わっている中学生からそう感じるものはありません。


ただ、これは相対的な話で、個別にみれば運動能力の高い子どもはいます。


私が気になるのは、運動能力の高い子どもの少なさというか、運動能力の高い子どもと、そうではない子どもの差が広がっているような気がしています。


地域性は当然あると思いますし、人口の多い都市部とそうでないところでは、そもそものマスが違うので、一概に比較はできませんが、正直、うーん、、、ってなってしまいます。



中学生になってからそんなことを言っても遅いことは分かっているのですが、、。



私は、運動能力がスポーツに与える影響は、技術の習得はもちろんですが、怪我をしにくい身体を作るうえでも、相当に大きなウェートを占めていると考えています。


もともと運動能力の高い子どもには、さらに高める努力をさせ、そうでない子どもには、少しでも高くなる努力をさせる。


本来であれば、小学生低学年に習得しておかなければいけないことを、中学生からやる。

もっと言えば、幼時期に慣らしておけばもっと早いのを、中学生からやる。


時間はかかりますし、多くは望めないかもしれませんが、きっかけを掴んでもらえるなら、、、ということでそれを始めました。


初回は、ヨガ!
公式HPにニュースとしてありました、「Future Power Lab × 乗鞍NORTHSTAR スノーボードキャンプ2016」のムービーが完成しました!

もちろん、これはNORTHSTARの皆様が撮影し、編集してくれたものです。。。




なかなかの腕前!


サッカーに生かされるかどうかより、いろんな身体の使い方を覚えて、将来に生かしてくれればと思います。

責任感

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サッカーをプレーすることにおいて、「楽しむ」ことと「チームワーク」は、生涯スポーツとしてはもちろんですが、『勝利を目指す』、『技術の向上』においても、最も重要だと考えています。

当然、人生にも当てはまり、「人生を楽しむこと」は現代社会にとって最重要課題だと考えていますし、「地域社会や所属する組織の中での役割」において価値を見出すことも重要です。

そこには、『責任を果たす』という、これまた大きなタスクが生じます。


適当に、また自分勝手に楽しんでいることは、人の迷惑にはなりませんが達成感は得られないでしょうし、チーム(地域、組織)の中では存在感を発揮できません。


「チームワーク」とは、それぞれがそれぞれの責任を果たし、さらに互いを助け合うことができることです。

なので、、、仲が良いとか、笑顔が絶えないとか、っていうので「いいチームだね」と言われることとは全く違います。



さて、昨日、久しぶりにTopの練習試合がありました。


正直、これはまずいと思いました。


大敗したことではなく、明らかにチームが真っ白で空っぽだったらからです。

まさか、大雪の影響ではないでしょう。。。


試合感が鈍っていたことも確かにあります。

そもそも、俯瞰してプレーする選手が少ないので、試合の『大局(観)』なんて全くありませんでした。


救いどころは、最後まで試合を捨てなかったことで、これはこれでとても大切なことなので、この点に関しては選手たちを誇りに感じました。


ただ、「責任感」が全くないプレーの数々には、目を覆いたくなる、顔を背けたくなる、、、もっというと、ベンチを蹴っ飛ばして怒鳴り散らしたくなりました。

まぁ、監督が冷静に試合を観ていたので、そこは踏みとどまりましたが、、。


よく、「戦っている」とか、「球際の強さ」といいますが、ファールまがいのプレーを許し、それを戦っているとする指導者もいますし、そういうチームは結構あります。

世界的には、今季のアトレティコ・マドリーなんかはこの部類に入りますし、モウリーニョのレアルは完全にこの部類でした。


僕は、そういういことを「戦っている」と評価したことはありません。

「球際の強さ」も、手を出したり、足裏を見せたり、後方から寄せてってボールと足を同時に刈るようなスライディングをすることではないと思っています。


5分5分のボールに寄せなかったり、自分の後方にいる相手選手にパスが通りそうなのに、また自分の真横をボールが通過しているのに、身体を投げ出してカットしなかったり、明らかに縦に抜いてくる相手に対してスライディングで対応できなかったり、選手1人の努力を惜しんでしまったために、結果としてチームの失点に結びついてしまうプレー、、、僕は、こういうのを「戦っていない」とか「球際が弱い」となるのと考えています。


1試合目、相手の「戦う」姿勢に面食らったチームは、「戦う」ことを忘れてしまったかのように無責任なプレーを繰り返し、またアンテのスタイルに固執し、それぞれのポジションでどうしたらいいのかが分からず、11人全員の意思がばらばらな状態で試合を終えてしまいました。

試合終了間際の唯一のスライディングタックルがなければ、この試合は何も得られないままに終わってしまったと思うほど、個人個人の「責任感」の無いプレーには驚きました。


2試合目、結果は大敗でしたが、1試合目で失った自信を取り戻すため、そして無駄な慢心を払しょくするために戦い、最後まで試合を捨てなかったことだけは評価できました。

しかも、選手たちは「エンジョイ」できたと、、。


「チームワーク」とは、個人個人が責任を果たすことによって得られるもので、表面で仲良く振る舞う必要はありません。

そして、本当の意味でサッカーを「エンジョイ」するためには、本当の意味での「責任」を果たさなければなりません。


この日の内容でそれに気がついてくれていれば、これからの試合では、負けそうな試合でも勝つことが出来るし、ロスタイムでの失点も無くなりると思います。


やはり、同じことが人生でも言えるでしょう。

大きな流れに巻き込まれて忘れてしまいそうになる、基本中の基本だと再認識しました。


エンジョイ!

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朝起きて、高梨沙羅の結果を聞いた時、「楽しめなかったんだろうなぁ」と思い、他人ごとなんだけど無念さを感じました。

逆に、平野歩夢や平岡卓のメダル獲得には「楽しめたんだ」と、スカッとしました。


スポーツを、、、五輪を、、、、勝負を、、、自分がトライしていることを『楽しむ』・・・これを言うと、どこかの国の過去の天皇の玄孫がしゃしゃってきそうですが・・・これ、スポーツ選手にとっては、本当に大切なことで、しかし、とても難しいことです。


勘違されやすいんですが、へらへら笑っていると言われても、本人はそう思ってない場合があるし、表現ベタな日本人の「頑張りましたが力及ばずでした」的な精一杯の表現が笑顔だってことも忘れてはいけません。


人それぞれの表現方法に他人がとやかく言うことがそもそも問題なんです。


・・・ちなみに、メダルを噛む行為を規制したのは賛同します。


さて、玄孫は置いておいて、、。



中学生を指導していて、本当に難しいと思うのは、この『楽しむ』ことを伝えられないときです。

こんなことをやってみよう、あんなプレーをしてみよう、個々のプレー一つとってみても、ユニットやチームでトライしようとしたことでも、上手くいこうが、失敗しようが、イライラしても、ケンカになっても、それが皆が好きであろう、サッカーに対して真剣に取り組んでいれば、自然と『楽しい』って感じられるもんだと思っています。


ただ、それがうまく伝わらない、、、伝えられないと言った方が、やはり正しいですね。。。


高梨沙羅や日本スケート陣じゃないけど、なんか背負い込んでいるというか、選手たちにとっての競技は、「自分が輝くための手段」であって、もちろん「メダルを取る目的」はあるにせよ、、、それは自分を表現した結果としてでしか得られない目的なのに、なぜか人のためにやってしまう。

「感謝」とかあるけど、それは結果を出した者が、その気持ちとして表わすもので、特に高梨沙羅は、最初からそれを背負い込んでいた気がしました。


中学生で言うと、監督である僕に「褒められる」ためなのか、「怒られないため」なのか、「相手にして欲しい」ためなのか、何だかわからないけど、「楽しめてない」と感じることが多いです。


そん中、ボトムアップということが盛んに言われていますが、そもそも、そんなのは理論でも何でもなくて、『楽しむ』ためには当然のことだと思っています。


<自分で考えて、計画や判断をして、実行する。>


当たり前です。


中学生なんだからではなく、小学生だって出来るはずだし、僕らの時代はそれをしなければやっていけない選手は多かったと思います。


よく「自分たちのサッカーをプレーしよう」と言いますが、僕は、この言い回しがすごく難しいと思っていて、捉え方によると、「自分たちのサッカー=ポゼッションサッカーとか堅守速攻で戦おう」、ってなってしまいます。

実はそうではなく、「自分が好きなサッカーを仲間と一緒に楽しもう」なんじゃないかなと。。。


中学生であれば、保護者がサポートしてくれて、指導者が環境を与えて、仲間と助け合う。

だから一人でやっているわけではないんですが、個人競技だろうがチーム競技だろうが、そもそも、保護者や指導者や仲間が楽しむためにやっているわけではなく、自分自身の喜びのためにやっているわけです。

で、それを見守ることが、他人の喜びになるんだと思います。


僕は指導者としてですが、保護者は親としての喜び、また、ファンや観客や報道者は応援している者としての喜びになります。


自分で考えるから『楽しみ』方が分かるし、計画するから真剣になるし、実行する『楽しみ』がわいてきます。



今回、高梨沙羅がメダルを取れなかったことは、そんなおおごとではありません。

それ以上に、彼女がどうして『楽しめなかった』のかを考えなくてはいけません。


他人は「よく頑張った」と言いますが、そもそも『楽しめなかった』彼女にその言葉は全く慰めにはなりません。

五輪ほど注目されないジャンプのワールドカップで、あれだけ勝っていたのはなぜか?


スノボハーフパイプのメダリスト2人の内、平野歩夢は程よく注目されていましたが、さすがに高梨沙羅や日本スケート陣ほどの注目はされていなかったし、好きな音楽を聴きながらプレイできる競技だから、周りの声や雰囲気はシャットアウトできたってのも大きかったと思います。


プレッシャープレッシャーと言いますが、プレッシャーなんて「自分が好きなことを楽しむ」と思っていればそんなもの感じません。

好きだったことが上手くいって、評価されて、、、そしたら、またリセットして、また好きなことを続ければなんの問題もない。

評価=結果=過去のもの、ですから、過去のものにしがみつく、過去のものと今を比べるからプレッシャーになるんだと思います。


随分話がそれてしまいました。。。


スポーツにおいて、選手が『楽しむ』ことを否定してはいけません。


僕たち周りの他人は、選手から『楽しませる』ことを奪ってはいけません。


もちろん、結果は大切ですし、勝負である以上勝つことが重要です。
しかし、それが全てではありません。


人生が毎日プレッシャーだらけだったらどうでしょう。

今の日本社会の問題でもありますが、毎日毎日追われた感じで生きているって苦しいです。

でも、そこに何か『楽しみ』をみつけることが僕らにはできます。


スポーツ選手の『楽しみ』はそのスポーツです。


選手自身が、そのスポーツを『楽しむ』工夫をして、私たち他人がサポートする。


僕にとって、高梨沙羅の結果は、選手から、『楽しませる』ことを奪ってしまったらこんな結果になっちゃうんだよ、という戒めになりましたし、改めて、『楽しむ』ことを伝えていかなければいけないと思いました。

言葉の問題

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海外に移籍した日本人選手が「言葉の問題」を理由にされ、成功か失敗の原因とされることがあります。

ずーっと違和感がありました。

「言葉の問題」と簡単にくくるけど、そもそも日本語もまともに話せないのに・・・日本語でコミュニケーションを取れないのに・・・言葉を問題にしていいのか、と。

子供のころからサッカーをやっていれば、大抵のサッカー用語はわかりますし、英語だろうとフランス語だろうと、オランダ語だろうと、まぁある程度は理解できるものです。
監督やコーチ、選手たちだって、そこに日本人がいれば、その国の言葉でまくしたてることはしません。

まくしたてるのがいたら、それは、まくしたてられた方にも責任があるし、まくしたてられる原因があるはずで、それがコミュニケーションだと思います。

海外の国の人も、結構親切で、「こいつ言葉が分からないな」と思えば、それなりに分かるように努力してくれますし、それが意外にお互いを近づけたりするものです。
でも、そこで、多くの日本人は、気を遣わせてしまったと思って、さらに腰が引けてしまいます。

しかし、本来、日本人が持ち合わせている「察する」というのは、コミュニケーションの大前提だと思います。
この人が何を言おうとしてるのか、何が言いたいのか、これを言ったら何て返ってくるか、、、それがコミュニケーションだと思います。

ある講習会で、コミュニケーションは国語教育の問題だと論じられたことがあります。
日本人が海外でコミュニケーションが取れないは、国語の授業で朗読しかさせないからだと・・・そこまでは言っておりませんでしたが、過去、英語教育で、文法ばかり教えても海外では全く使い物にならないから、リスニングやヒヤリングを多く取り入れるようになったのを思い出したました・・・。

段階を踏んだ、国語教育がなされていないと、漢字の書き取りや算数は段階を追っているのに、なぜか国語だけは違うと。

日本語を否定しているわけではなく、むしろ日本語は素晴らしいのに、なぜか国語は違うと。

少し、解決しました。

なぜ、海外で日本人の評価が「言葉の問題」に集約されてしまうのか、、。

日本語を使ったコミュニケーションが取れない、、、つまり、気持ちを表現するツールがないから、どんな言葉でも、どんなジェスチャーにも対応できないと理解しました。

サッカーでも、フットボールでも、同じボールゲームであって、ボールをゴールにいれるスポーツであることが変わらない限り、どこに行ってもボール一つでコミュニケーションが取れなければおかしな話なんです。

言葉ではなく、コミュニケーションの問題なんだと思います。

日本人のインタビューを見ていても、うつむき加減で暗ーく話す選手と、上向き加減で軽ーく話す選手とでは、やはりプレーに違いがあります。
インタビュアーが何を聞いているか、言葉ではなく、雰囲気やなんとなくの意味合いで分からない、、、良く言えば真面目すぎるほど真面目、悪く言えば感じられないってことです。

実は私、こう見えても・・・どう見えてるか分かっていませんが・・・人見知りするタイプです。 
自分から積極的にコミュニケーションを取ろうとするタイプではない、と言った方が正しいかもしれません。

話しかければ、、、という受け身な人間です。

ただ、幼いころから、相手が何を言っているかを、何をしたいのか、を分析する、、、感じることが得意なませた"ガキ"でした。

でも、海外に行っても、日本に行く海外の国の人とも、多かれ少なかれ、笑いながらコミュニケーションを取れます。
日本人特有の、分かってないのに分かったふりをすることもありますが、大体分かり合えます(笑)

そこで、もうひとつ大きな問題が、体罰の問題です。

まず、なぜ体罰があるのかを考えなくてはいけません。
コミュニケーションが取れていないからです。

指導者が何を言おうとしているか、選手がどう感じるか、どう捉えたか、これらを分析しないから、結果、手や足が出るんです。。。

正直、女子柔道の問題は、ショックでした。
私の近くにいる、スポーツ選手や部活経験者、チャンピオンスポーツを志したにとってみれば、「バカヤロー」なんて言葉の暴力だとは思っていません。

軽くけられたり、はたかれたりすることはありました。
でも、先生の顔には温かみというか、「テメェこのヤロウ・・・」的な、ちょっと無邪気な感じがありました。

まぁ、園田監督の顔は怖いので、そうは思いませんが、決して陥れようとしてるわけではないし、間違いなく、その人個人を憎んで言っていることは何一つなかったと思います。
あくまでも、その技の掛け方とか、気持ちの持って行き方とか、闘う姿勢とか、教わってこなかったことに対して教えよう、教え込もうとしたことが、今回の結果になったと思います。

こんなのは氷山の一角でしかなく、まさに、指導者の伝え方、選手の捉え方なんです。

もっというと、最近の若い選手には忍耐力や考える力が圧倒的に足りません。
そんな時代の指導者のアプローチが課題になっていることは間違いありません。

考えさせることと、教えることを上手く使い分けないと選手は育ちません。
ボコボコにされるような経験がないので、大阪の高校のようなことは理解が出来ませんが、技術やプレーに対して言っていることが、選手個人への"口撃"になっていると捉えられたら終わりです。

大阪の高校の件はやりすぎな感じもあったと思いますが、チーム全体としてフォローできる問題であったとも思いますし、あの先生がやるべきことはもっとあったと思います。
やった行為は別にして、最悪の事態を避けることは出来たと思います。

それが、正に、コミュニケーションなんだと思います。

指導者と選手の良好なコミュニケーション。

そこに、今は保護者が大きな存在となっているので、三者のコミュニケーション、チーム全体のグループとしてのコミュニケーション、さらにそれらを取り巻く人々とのコミュニケーションが重要です。

ただ、今話題の柔道の問題ですが、園田監督の誠実な姿勢や、真面目な会見のため、逆に情熱的な指導者だということがクローズアップされた気がします。

メディアは、ここぞとばかりに叩いたし、協会も敏感に反応しましたが、当の15人のトップ選手がなぜメディアに出てこないんでしょうか?
同じ柔道の指導者でも、内柴のしたこととはまったく質が異なります。

メディアのやることはいつでも一緒で、高校野球の特待生問題の時もそうでしたが、じゃあ今、特待生ってなくなりましたか?

・・・ずれました。


暴力はいけません。
でも、厳しさがないのはもっといけません。

中学生のころ、ケンカをいっぱいしました。
殴り合いのケンカが権力維持という時代です。

でも、そのケンカによってコミュニケーションが取れていた時代でもあります。

時代は変わりました。
今の指導者は、それを理解しなくてはいけません。

でも、厳しくなくては上手くなりません。

殴って上手くなるならいくらでも殴ります。
昔はそうだったかもしれないけど、今は違います。

でも、厳しくなくては強くなりません。

強すぎる言葉も駄目です。
私は、言葉が強すぎて選手たちの心を傷つけてしまうことがありますが、そんば選手たちをフォローしてくれるスタッフや保護者がいます。

選手たちが笑顔でグランドを後にしたときは本当に嬉しくなります。

笑顔というコミュニケーションが取れれば、世界どこに出ても活躍できると思います。

「言葉」だけの問題ではなく、コミュニケーションであり、笑顔でそこにいるかどうかの問題です。

今日も、厳しくやります。
ただ、コミュニケーションを大切に、世界で通用する人間を育成するために!

道のり

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「監督の腕組み」というコーナーを設けていただき、いつしかサーバーの都合で使えなくなっていて、今季、新しくこのコーナーを復活していただきました。

 

にもかわらず、シーズン中は何かと理由を付けては投稿してきませんでした。

 

・・・が、ついに初投稿せずにはいられなくなりました。

 

アンテを少しでも知っていただいている方なら既にご存じかと思いますが、そうなんです、アンテ史上初の「1部リーグ残留」を決めたのです。

これほどのビッグニュースを私が報告しないわけにはいけません。

 

でも、ここで報告しなくてもwebや選手・スタッフブログでも報告済みだから、、、どうしようかと思っていたら、ロンドンオリンピックで競泳ニッポン男女の大活躍が、、、サッカー以外で夜中に起きてスポーツを見るなんてことはほとんど無いのに、何となく惹かれるものがありました。

 

オリンピックが始まるというのに、メディアの取り上げ方が"なんとなく"おとなしいと感じていて、それはそれで、僕としてはOKなんですが、でも、悔しい思いをして復活をした選手がいたり、順風にみえて実は凄い苦労を重ねた選手がいたり、平成生まれの選手が多くなってきていたり、魅力的な『道のり(課程)』を持っている選手が多い気がして、正直、過去のオリンピックよりも"なんとなく"見てみたいなと思っていました。

 

交通事故でサッカー選手や教員という道から、新しい道を選んだ僕が一番最初に出会ったのが、ライフセービングです。

これは、簡単に言うと、海難事故を防止する活動のことですが、ライフと付いているので、人命救助というもう少し大きな意味もあります。

海に行くと、赤とオレンジの変な帽子にサングラスをしたマッチョな人を見たことがあれば、その人たちがやっている活動のことです。

ビックリする方もいますが、実は、僕、あの方たちの仲間だったんです。

というよりも、今でも仲間ですが、、。

 

ただ、当時は、もう少し痩せていて、マッチョ体型でしたが、、、まぁ、今はね。

 

当時の先輩や同級生には有名人なんかもいて、飯沼誠司なんてのは、僕の結婚式の立ち会いに人までやってくれたやつですが、最近は連絡も取らず、電話番号も分からなくなってしまいましたが、、、まぁそのライフセービングのトレーニングってが凄く辛いんです。

 

僕がサッカーの指導者になってから、今でもフィジカル的なトレーニングのベースにしているのが、この時のトレーニングなんですが、その中で、競泳のトレーニングがあります。

当然、オリンピックに出るほどのトレーニングはしませんが、先輩も後輩も同級生にも元スイマーが多いのは当然で、それはそれは凄い追い込むわけです。

 

本当に苦しいんです。

彼らの常識でしごくので、「僕は空気を吸って生きていたいです」という温情が通用せず、まぁとにかく大変な思い出でした。

 

だからというわけではないのですが、スイマーの素性というのは若干理解できます。

妻もバリバリの元スイマーなので、どういう思考回路なのかも何となく分かります。

 

競泳は個人競技ではあるけど、これは柔道や陸上競技、他の個人競技でもそうだと思いますが、実は、根の根はチーム競技なんです。

 

《あいつが頑張るなら、自分も頑張る。》

《自分が頑張れば、あいつも頑張る。》

 

自然に、必然に、こういう構図が出来上がります。

コンマ何秒という争いをしている中で、そういえばスイマーのトップトップで卑屈な人間はいませんでした。

 

力(技術)の無いものには、指導を惜しまず、力(技術)のあるものから容赦なくそれを盗む、そして遠慮無く、躊躇無く、指導を仰ぐ。

 

そんな彼らだから、「まさか」のではなく、『当然』の銅メダル三連発!

初日の高校生の活躍とエース北島の不振で、さらにチームが一つになったんだと思います。

 

アーチェリーでも、体操でも「自分が踏ん張らなきゃ」、「自分が挽回しなきゃ」という言葉がコメントで聞かれました。

決しておごりではなく、それがチーム競技だからです。

 

久しぶりに感動しました。

作り物のお涙ちょうだい番組には全く感動しませんが、あの舞台に立つための『課程』を考えば、何の言葉も必要ありません。

 

朝方にもかかわらず、アンテのゴール級に大声で興奮してしまいました。

メダルの色とか、いろいろありますが、それ以上の『課程』がみえ、本当の感動を味わえました。

 

サッカーはチームスポーツと言いますが、本当の意味でチームスポーツを理解している選手がどれだけいるか、誰か統計を取って欲しいものです。

今季のアンテはチームになれなくて苦労しました。

 

『チームのために』と感じさせるチームに出来なかったことがそもそもの問題で、僕の力の無さを痛感しました。

それでも、たとえ10点取られても、同じ相手に同じスコアで連敗しても、勝てそうで勝てない、引き分けそうで落とす、そういう試合を続けても、24名の選手たちは、『チームのために』という強い気持ちで最後まで闘ってくれました。

 

チームの身の丈に合った戦術ではなくても、それを築き上げようと努力し、奇跡を信じて戦い抜いた選手たちのここまでの『課程』は、アンテ史上に残る、史上初の快挙に見合った、そして、来季に勝負を懸けるための歴史を築いた『課程』です。

 

あえて『道のり』を知らせ、語る必要はありません。

ただ、何かを成し遂げた時、そこまでの『道のり』は本物で、それは言葉で伝えなくても「感動」を呼びます。

 

そろそろ、新しい『道のり』を歩め、新しい歴史を築け、ということかもしれません。

 

新しい感動を受け、与え続けるため。

 

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