日本のサッカー界でも結構当たり前になってきた「握手をする」という文化。
この文化に少し切り込みたいと思います。
欧米では、スキンシップやコミュニケーションということで当たり前に行われている、「敵ではない」、「仲間である」、「平等だよ」等を意味する握手ですが、『お辞儀の国』である日本では、サッカー以外でもやっとここ最近広まり始めている文化です。
握手とは、そもそも、「武器は持っていないよ」という意味で、利き手を差し出すことから始まったようです。
欧米の交通ルールも面白くて、車の走行車線なんですが、どうして欧米の多くは右側通行で、日本は左側通行なんだろうと思っていたら、どうやら、これも馬車のすれ違いの問題があったようです。
右手で鞭を振ると、対向車(対向馬?)に当たってしまうから、右側にしたというのもあれば、面白いのが、イギリスも日本と同じ左側通行なんですが、これは、馬に乗って戦をしていた時代・・・今も騎馬隊があります・・・には、左に鞘があるので、左側通行にしたという話があり、それに対抗して、フランス革命のときのナポレオンが、左利きだったため、右鞘だったら右側通行だろう、という強引な個人の都合で、欧州大陸の多くが右側通行になった、とか、、。
握手からそれましたが、こういう文化とか伝統というのは、その時代時代によって結構いい加減な理由で変わってしまいます。
しかし、そのものの定義というか、どうしてその風習が始まったのか、文化とか伝統の根源は何なのかというものを理解していなければ、またそれを伝えていないといけないと思っています。
僕が常々意識しているのは、『言葉の定義』で、とくにカタガナ語は、話す側がしっかりと理解して定義していないと、めちゃくちゃな伝わり方をします。
もう少し話をずらしますが、例えばテレビを購入する時、インターネット上のランキングなどで判断することが多いと思います。
でも、たくさんある電機メーカーの中で、テレビをそのメーカーの基としたのはどこなのか? とか、メーカーの根幹がテレビであって、その技術開発に力を注いでいるメーカーは? とか、という視点で選ぶことも大切だと、、、まぁ堅苦しいですね。
つまり、文化や伝統なんていうのは、そもそも、時代が変わり、人が変われば変わってしまうもので、そういう移り気なものに捉われない、確固たるものを見極め、自分のものにすることこそが本物と言えるのだと思います。
サッカーの世界でも、クラブの身売りなんて言うのがありますし、オーナーの気分次第で監督が変われば、サッカーそのものが変わってしまいますが、それでも、そのクラブを愛するサポーターが多いことは、それが本物だからです。
地域に根差し、親、祖父の代からの根っからのサポーターというのが多いことは、文化や伝統ではなく、本物を意識させられます。
はたして、日本のサポーターの中には、まだまだといった感じだと思います。
スタンドに行ったら面白かったっていうのがありますが、それはそれで別に悪いことではありませんが、なんかAKB的な、すごくバブリッシュな感じがしてなりません。
だからこそ、それぞれが本物であったり、本質的なものをしっかりととらえて行動することは大切だだと思います。
皆が盛り上がっているから、その流れに乗らないといけないって考えている人、本当に多いと思います。
好きな選手がいるから、今のところはそのチームが好きだけど、いなくなったらどうなるか分からないとか、多いです。
自分というものを持っているかどうか、ということでもあると思うのですが、なかなかここは日本人なんですね。
当然、僕も流されてしまうこと、、、あります。
さて、話を本題に戻しますと、「握手をする」という行為そのもののに、好しとする風習があることに疑問を感じています。
サッカーの試合前のセレモニーで、整列して握手を22人の選手+4人の審判団が行いますが、これは、「平等にフェアで戦おう」という意味合いが込められていると思います。
これが、Jや日本の他のリーグでは、試合後もするのですが、日本らしいと言えば日本らしいと思いますが、僕はあまり好きではありません。
しかも、各チームのベンチまで行って挨拶をするって、どうなんだろうって思います。
握手は「相手の目を見て」が基本です。
握った手を振ったり、握手をしながらお辞儀をしたりするのは作法ではありません。
片手を添えるのも、自分を下の人間だと言っているようなもので、そもそも「平等」というものからは外れます。
国によってはその作法が決まっているのですが、日本にはそもそも握手という文化、作法がありませんから、もう少し基本を理解した方がいいと思います。
ただ、文化は時代によって変わるもので、どこの国でも今はかなりアバウトになってきているはずです。
それでも、相手の目を見れなくなる、本当に心のこもった挨拶が出来なくなるような、試合後の形だけのセレモニーは、僕は反対です。
選手同士、指導者同士、指導者と選手が、健闘を讃えあっての心のこもった握手をそれぞれがやればいいと思っています。
さらに、もうひとつ、選手から指導者に握手を求めにくること、これはどうなんでしょうか?
ここでいう選手とは、主に小中学生ですが、なんか気にくわないんです。
ただ、有名選手や有名な指導者に握手を求める気持ちは分かります。
一種のスキンシップですね。。。
憧れの対象に「触ったー」っていうあれは、高揚感というか「握手してください」という謙虚な気持ちが込められています。
僕も、立場関係なく、求めるでしょう。
しかし、握手には「平等だよ」というメッセージがあります。
平等であっても立場は違うことを理解しなければいけません。
選手から指導者に、率先して「平等だよ」ってメッセージ、ちょっと考えれば、おかしいと思いませんか?
僕が指導しているチームでは、指導者に対して選手から握手を求めることはしません。
僕から握手を求めることはあります・・・頑張ってこいよ!、という状況が生まれた時には特に、、。
僕も人としては、どんな時も人としては平等に選手には接していますが、立場が違うこと、これも事実です。
その立場を、暴力や暴言などで変な方向に利用することが問題にはなっていますが、ただ、やはり、指導者と選手はサッカー人としては平等な扱いになりますが、組織としては対等ではありません。
会社の社長に、社員が握手を求めるって、普通に考えても変ですよね?
外資系の会社なら、左遷か減給か、もしかしたらクビも覚悟した方がいいかもしれません。
でも、単なる儀式として「握手」を理解している選手が多くなってきました。
たぶん、それをしているチームの指導者は、そもそも「握手」というものがどういうものなのかを知らないのでしょう。
僕は、年齢が上の人や、立場が上の人には握手を求めません。
当然、握手を求められたら、すかさず手を出しますが、僕から「平等」メッセージは出しません。
逆に、年下や立場の下の人から握手を求めれられても、一応は答えます。
サッカーのセレモニーとしてあるものに関して疑問を抱いていても、受け入れて、一応は答えます。
でも、選手が意味も分からず、その行為自体に酔っているというか、その選手のチームのルール(儀式)になってしまっているようなものに対しては、残念ながら答えないようにしています。
そして、「握手」というものがどういうものかを調べてもらいます。
僕自身、僕のことを面倒な大人だなとは思いますし、そんなことを教える義務はありませんが、また、なぜ選手たちがそうしてしまうのかも理解は出来ますが、僕の性格上、これだけは受け入れられないのです。
さらに拍車をかけるのは、選手間での握手がないことです。
これが不思議です。
指導者をみつけたら、一目散で駆けつけて握手を求めてきますが、選手間では行われない、、、不思議です。
今日の練習、今日の試合を頑張ろう、一緒にやりきろうというメッセージを発しないんです。
と書いていて、僕の指導しているチームの選手たちもしませんね、、。
あ、スタッフ間もしてません、、。
意味合いを深めればするべきですね。
で、不思議になるというよりは、「握手」をやらされている、「握手」を理解していない大人や子どもたちが、そんなことを出来るはずがありませんが、、。
しつけという部分になるのかもしれませんが、今の選手たちは「やらされている」行為が非常に多くあります。
例えば、今回は「握手」でしたが、「挨拶」や「ゴミ拾い」など、しつけとして必要なことではありますが、それが今必要なことなのかどうか、今やるべきことなのか、正しいもの、基本はどうなのか、を教える必要があると思います。
握手や挨拶を強要された選手たちが、5年後10年後に挨拶の出来る大人になっているでしょうか?
実際に、挨拶をやらされているチームの指導者の態度や、そこの保護者の様子をみると、たいしてどうってことありません。
そのチームの試合中の行為も酷いものがほとんどです。
ある子どもが横断歩道を渡ったあと、上り下りに頭を下げている行為をみました。
必要ですか?
形だけになっていないですか?
5年後10年後もやりますか? やらせますか?
その子の親御さんは、子どもをほおっておいてどんどん先に行ってしまいました。。。
子どもだからやらせるのですか?
「握手」や「挨拶」は大切なことです。
でも、もっと大切なこと、教えなければいけないことはたくさんあります。
よく言われますが、指導者や保護者の姿勢をみて選手は育ちます。
言われたことはほとんど右から左です。
指導者や保護者がみせればいいんです。
サッカーだけでなく、人間として育成するというのは、どこのチームでも、誰でも言うようなステレオタイプになっています。
僕もそう思っています。
空っぽなものにだけはならないように注意していますが、ぶっちゃけ、実際はかなり難しくて、言えたほど出来ていません。
でも、見極めるというか、今本当に必要なことを指導する、それが5年後10年後にも生き続けるもの、それを指導することが大切だと思っています。
文化、伝統は、時代時代、関わる人々によって変わります。
しかし、それでも変わらない本物であったり、基本、土台、礎、これを根付かせること、これは本当に大きな挑戦だと思います。
コメントする